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文学評論 雑記帖
あい文学校の日録-3-
2005.6.12〜2005.9.12

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雑記帖シリーズ 2005
nakagawa shigeo

June 12, 2005
自分の居場所



-雑記帖(1)-

自分のいる場所ってのがわかりにくい時代のようです。
というのも都市化が進み、流動化が進み、身体が移動してきたのに、
心が置き去りにされてきたことに原因があるのかな?とも考える今日この頃です。
それと、自分がテーマになる時代でもあると考えています。
これまで、外化した世界で、日々生活をこなしていけばよかった時代から、
内面の世界が重視される時代になってきた、ともいえます。

大きな世界の物語が、小さな自分の内面と、その近辺雑記が主要テーマになる時代。
かって私小説のテーマもどきの世界です。
自分の居場所を失った人々。若い世代の心の奥で、自分の居場所を探す自分を発見するようです。
今様文学の原点がそこに根ざしているようにも思われる。


June 17, 2005
京都



-雑記帖(2)-

京都に生まれ、京都に育った自分が、ここにいるんですが、奇妙な感じなんですね。
文学の領域で、自分の足元を見つめようと思っているんです。
世の中、京都ってイメージがあるんでしょうかね。
あるとすれば、どんなイメージになるのかな?

旅行者・旅人がとらえるイメージと、生まれ育った人がとらえるイメージと、どのように違うのか?
京都人が京都のことを考えイメージすることと、旅人が京都のことを考えイメージすることの違い。
<ふるさとは遠きにありて想ふもの>なんて、室生犀星だったかが云ってましたが、
彼は故郷金沢を東京にて想うんですね。
それから司馬遼太郎なんかは、やっぱり旅人として書いていくんですね。

文学にしろ写真にしろ、移動者の目って云うか、他者の目って云うか、視点の在る処が外在なんですね。
生まれ育った場所で、生まれ育った風土をもって表現するって、どうなんでしょう?
けっこう難しいしごとなんでしょうかね?


June 20, 2005
個体の内側



-雑記帖(3)-

個人の内側がいっそう大きなテーマになる時代じゃないかと思っています。
とういうのもこれまでの経緯でいうと、私の外に対して発言するという立場がとられ、
ヒューマニズムの観点から自分を推し量るという逆照射して、自己確認をしてきたと思うんです。
ところが、最近は、この社会的位置という枠を外して、
私と云う個体の内側の情動をどのように処理するのか、と云うようなこと。
もちろん論理的には、私という個体は社会的存在だから、私の成立は社会環境に立脚する、
と云えましょうけれど、そういった人間認識ではなくて、情動レベルの内側のことです。

言葉で云ってしまえば、個体のエロス要素とカロス要素です。
それにタナトス要素が加わるような、情動のところです。
ヒトの体と心の構造を科学的に解明しよう、と試みられている現在の潮流があります。
これまで非科学だとして排除されてきた宗教レベル、
芸術レベルの感情をも科学の枠組みにおいて解明していく潮流です。

このような傾向のなかでの注目が、私の情動を私自身をもって満足させる作品制作の方法、これなんです。
エロス・カロス・タナトス。ここに新しい大きなテーマが隠されているように感じているのです、ね〜!


June 23, 2005
京都文化は雅



-雑記帖(4)-

いまどきなぜ京都の文化なの?

ここにひとつの仮説を立てます。
この国の文化全体をとらえる視点からみると、雅文化と鄙文化の層に分けられる。
世界の文化全体をとらえる視点からみると、この国の文化は、現在、西欧文化に覆われている。
つまり、西欧文化に覆われた現状に対して、固有の文化軸を対抗させるとすれば、
雅文化を具体化してきた「京都の文化」に注目します。

ここにもうひとつの仮説を立てます。
アーバンライフとルーラルライフという二つのライフスタイルがあります。
アーバンライフを創ってきたのが雅文化だとしたら、
ルーラルライフを創ってきたのは鄙文化です。
どちらが優位なんて区分じゃなくて、大別して二つの文化圏が面として拡がってる。

未来への生活態度として<まるエコライフ>という概念を考えているのですが、
身体と心、生産と消費、自分発信、ヒトとヒトとのネットワーク・・・
この軸に成熟させていくために、身体としてのルーラル(鄙)、心としてのアーバン(雅)。
この総合化がこれから求められるヒトのあり方かな〜との仮説なんです。


June 30, 2005
明と暗



-雑記帖(5)-

物語は明か暗かという自問なんですが、文学っていうとなにか翳がつきまとうんです。
だいたい文学に適した素材が<暗い>というのが、我らの文学の典型のようにも思える。
この世に生きることって、結局、暗い出来事なんだ!なんて思っていたとするなら、
これを<明い>にしなければあきませんね、と思ってるんです。

じゃ〜具体的にどうするんよ〜!
どんな文学にするん?お笑いとかですか〜?
生きるってことが、四苦八苦することでは、夢も希望も紡ぎ出せないしね。
どうしたらいいんでしょうね〜!

喜びから生まれる表現、心のありようとしての喜びです。
病気よりも健康。
そういうと文学だけじゃないですね、生きること、そのものが喜びを紡ぎださないと意味がない。
その喜びを綴ることで、文学にはならないんでしょううか。

そう思って最近の動向をみていると、明るい文学ですね。
明るい小説がけっこうありますね。
やっぱり生きることの喜びを、排除したらいけませんね。


July 05, 2005
陰と陽



-雑記帖(6)-

老子の42章には、万物は陰を負い陽を抱き沖気をもって和をなす、との記述があります。
この陰陽沖の関係をヒントに、陰陽をイメージしてみたい。
つまり陰は隠されたモノ、陽は明るみに出されたモノ、このように区分してみます。
そうすると陰は、明るみに出されることによって陽に変化します。
するとさらなる陰の部分が探し求められる。

文学作業とは、いつも陽に密着した陰の世界を、陽に転換させる作業のことと云えますね。
陰はプライベートな感覚、陽はパブリックな感覚、という分け方でもいいですね。
陰はアンモラル領域、陽はモラル領域、という分け方でもいいですね。
ここでは文学作業といっていますが、作家の表現作業といってもいいですね。

陰は気づくことで陽になる。
さらなる陰を気づくために作家の表現作業は妄想化を伴う、なんて思いますね。
さて、現在の陰と陽、どこで一線を引くのだろうか。


July 07, 2005
七夕



-雑記帖(7)-

7月7日、七夕祭りです。
七夕って、織姫と彦星は1年に一回の逢うんですね。
天の川を介して、別れ別れになってしまった二人ですね。

科学万能時代に、七夕って、ホンマかいな〜って思うんでしょうね。
科学において、どう証明するか、なんて考えないでおきましょう。
ロマンは、科学ではないですね。

科学で解明できてないことがいっぱいあるじゃないですか。
織姫と彦星においても、なぜ1年に一回逢えるのか、なんて、
科学実験で証明できますか、ね?

まあ、どっちでもいいようなもんだけど、
ちょっと気になっただけです。

それよりも、良い天気だったとしても、最近、天の川って観えます?
もちろん都会地での話し、観えます?


July 17, 2005
祇園祭



-雑記帖(8)-

今日は7月17日、京都は祇園祭のハイライト、山鉾巡行の日です。
祇園祭りは、ボクの祭りじゃないから、写真には撮りません。
といいながら、おとといの夜、見物にいきました。
でも、写真は撮りませんでした。

京都在住半世紀以上が経っています。
京都といいましても、生息地は北西の一角です。
文化度とか人階層とかのグレードがあるとしたら、末端です。
まあ、都のマージナリー、周縁に生息してきたといえばよろしいでしょいか。

都市の構造の中に、ヒトの感情や見識が根ざすとしたら、ボクの居場所は何処?
なんて思ってしまうんですね。
群衆論(港千尋:著)というタイトルの本を読み出したんですがね。
ボクも群衆のなかの一つの点です。

海の中のプランクトンの一つです。
大きな魚に呑み込まれて栄養にされる。
そんな立場のボクなんです、ね。

でも、いいじゃ〜ないですか。
点に過ぎない生命体だけれど、ボクにとっては、一個の全存在生命体。
損得抜きで、この生命体を存続させてあげましょう。

祇園祭りは、ボクの祭りじゃないのに、気になる祭りです。
だから記念に、ここに記したわけです。


July 20, 2005
エロス表現



-雑記帖(9)-

文章であれ映像であれ、表現の分野にエロス表現があります。
エロス表現の幅と深度においては、何かと話題を持って世に迎え入れられてきます。
社会構造の中においても、基層部分に脈々と流れる領域です。
さて、このエロス表現の開かれ方が、西欧文化圏とはかなり違うという感触を受けます。
エロス表現の幅と深度をもって文化の厚みを測るとすれば、
現代日本文化では、それほど広くて深くないようですね。

話はインターネット上でのエロス領域。いったいこれは何?と思わせるほどに送られてくる<迷惑>メールたち。
18禁サイトのボリューム。若年層の性問題が問題化するなかで、
グローバル化の波はエロス開放へと向いていると思います。

いやはや、文学表現や映像表現で、現在的テーマを追うとき、
一方でエロス表現の問題が立ち現れてきます。それとどう向き合うかということなんです。


July 29, 2005
天神さんの縁日にて



-雑記帖(10)-

北野天満宮は京都の北西にあります。
ボクの自宅から歩いて5分足らずの場所なので、毎月25日の縁日にまま出かけます。
ここは花街「上七軒」が隣接しています。その界隈に着物リサイクルの露天の店が並びます。
ボクの興味はこの露天の店先です。赤色、桃色、艶やかな着物が山と積まれているのです。

北野天満宮界隈は、最古の門前町と聞きます。
京都では、祇園界隈よりも古い歴史があるといいます。
ボクが小学生だったころ、いまよりももっと縁日規模が大きかったように思えます。
大道芸があり、見世物小屋があり、香具師が人を集めて熱弁ふるっていた。

加齢とともに京都地域文化への傾斜が始まってきた。
京都文化は雅文化なのですね。雅文化史はエロス文化史のような感じがする昨今です。
露店の着物の山を見ていると、その向こうに男と女の物語が、悲哀であったり快楽であったり、
様々な相をもって立ち現れてきます。それは「魔」の領域に位置するこころのイメージです。

写真は「魔」シリーズ、着物です。


August 04, 2005
お百姓



-雑記帖(11)-

文学校でお百姓なんて言い出すと、農民文学だとかプロレタリア文学だとか、
そんな過去の文学を連想しがちですけど、そういうことではないんです。
つまりここではお百姓、食べ物をつくる人のことではあるんですけど、
その心を文学的に受け留めたいと思っているんです。

まあね、土にまみれて「肉体」を確認する行為、なんていえばよろしいでしょうか肉体派。
一方で「神」の存在を感じとる行為、なんていえばよろしいでしょうか精神派。
肉体と精神が統合してあるような領域が、お百姓の領域です。
エロスの現場は肉体と精神、お百姓の現場も肉体と精神です。

お百姓が扱うのは植物世界、エロスが扱うのは動物世界、なんていえるかもしれないな〜とイメージしたり。
植物世界にエロスを見、動物世界に土を見る。
宇宙渾然として一体になっている自分をイメージするような、そんな感じがしますね〜。

わけの分かったような分からないような、文学とはそんなもん。
わけが分かる、分かる、お百姓やれば分かる、そんなもん。
人間は全体として生きてるんやね〜!


August 11, 2005
お盆です



雑記帖-12-

お盆の真っ盛りです、京都です。千本鞍馬口に、閻魔堂があります。
閻魔さま、そないに睨まないでくださいましな、お願いですから、もう悪いことは考えませんから、
どうぞお目こぼしをくださいませ¥200也で、お目こぼしをいただくことになる。

京都の魔界とでもいえばいいのでしょうか、大極殿跡が、千本丸太町にありますが、
其処から真直ぐ北へ上ったところに、この閻魔堂がある。
現存の閻魔さまは六百年といいますが、平安京が定められたころに出来た、北方位、玄武の方角です。

丁度いま、お盆の真っ最中です。お迎え行事が行われて、
きょうはもう先祖の霊が家にいらっしゃる、16日まで滞在されるんですね。
大切にしてあげなくちゃ〜いけませんね。
16日の送り火で、さようなら〜!また来年、お会いしましょうね〜!
庶民信仰っていうか、京都のエッセンス、庶民生活者の心理の襞がかい間見えるような気がします。


August 18, 2005
戦争と平和



雑記帖-13-

そりゃ〜なんてったって戦争がない世の中がいいのに決まってる。
第二次世界大戦終結後60年が経った2005年8月。
NHKの特集をまま見ています。
ドイツの犯罪、アメリカの犯罪、日本の犯罪、戦争は犯罪ですよね。
なんてったって犯罪です。

戦争と平和、あるいは、戦争か平和か。
平和がいいのに決まってるじゃ〜ないですか。

にもかかわらず、いっこうに戦争状態、交戦が起こる現状は、いったい何なのよ?
まあね、戦争でたんまり設けてる連中もいるんだし、そんな奴ほど力を持ってるし、ね。
もうあほらしくて、戦争反対〜!なんて云うのも恥ずかしい、ね。


August 28, 2005
葡萄



雑記帖-14-

ボクのイメージの中の葡萄。
イエス・キリスト、葡萄酒、葡萄酵母パン・・・
庭に葡萄の木を植えようと思い立った時に描いたイメージです。
「最後の晩餐」という物語があり、絵画があります。
そこに登場する飲み物が葡萄酒とパン。

ボクのダメージが大きくて命果てることをイメージしていた日々のなかに、葡萄イメージが湧いた。
かれこれ3年目の夏、庭の葡萄の木に、葡萄の房がいくつか成った。
この葡萄で酵母を採ってパンを焼こうと思う。
葡萄酵母と小麦粉と塩。
単純な話、パンは主食の原点のように考えていた。

パンは西欧文化のなかの食べ物だと気づきます。
子供の時から朝はパン!という理想の中で育った我らの世代だ。
お米を食べる文化風土のなかで、地域文化を見直すなかで、
自分の中のパン文化をどう捉えるかが、課題となった。
西欧化されてきた文化状況の真っ只中で、
身体に染み付いた習慣と論理との乖離をその中に覗き見るのです。


September 01, 2005
京都



雑記帖-15-

京都についての雑感。
ヒトの心を構成する記憶の襞から、自分の過去を詮索する記憶を導きだすと、それは京都、
具体的な京都の個別の光景がよみがえっては消えていきます。
たまたまボクは京都に生まれて京都に育ち、いまもって京都に棲んでいる。
自分を構成する具体的な生活根拠地として京都があります。

京都生まれの京都育ち、とはいえ、東京にも大阪にも金沢にも棲んだり仕事をしたりの経験もあります。
その経験をも踏まえて、文化の深くを探れるのは、生まれ育ったトポス、京都だとの認識があります。
幼年期から青春期まで、まだ自分の背丈だけで体験する記憶から、
なんとなく文化の襞が見えてくる感触を得ます。

たまたま京都に生まれ育った自分なので、ふるさとは京都です。
なにかと話題になる京都は、日本文化のそれも雅文化の基底が京都だとの論です。
外在の目、内在の目、それらが混在しながら京都というイメージを作り出しています。
実際、ボクには、ボクの思うイメージが外在なのか内在なのかは、わからない。
そういう区別が必要なのかどうかもわからない。

世の中が、アイデンティティを求める時代だから、仮想の京都イメージが必要なわけだ。
われらの帰るべく原点が京都にある。
それも都市に内在する心の襞、それを探ろうとしているわけだと思う。
京都学なんていう領域もあるようだし、ここでボクの作家態度としては、
自分の経験を論評しながら語ることで、いいのかも知れない。

京都とは、分けの判ったような判らないような、混沌です。
ただシンボル化された、京都という文字がある。
そうして表と裏の、あるいは晴れと穢れの光景が掬い取られてイメージ化されていく。
おおむね東京発信情報によってです。

京都とはなにか、との問いは、ボクにとってのボクとはなにか・・・。


September 12, 2005
稲穂



雑記帖-16-

秋になると稲穂が垂れる、実りの秋、豊穣の秋、豊かな土の恵み・・・。
様々に言い方はあるけれど、ごくごく平凡な形容だけど賛美する稲、米です。考えて見なくても、お米は主食。
我らが文化の基軸に、稲文化がある。

オーナー制田圃のオーナーにならないか、との誘いもあり、今年は田圃のオーナーになった。
まもなく稲刈りで、秋からはこの田圃のこの米を食べ始める予定だ。
夫婦1年分の主食が手に入る。
田圃の所在地は、京都の園部・天引です。住民の高齢化が進み、田畑が荒れる・・・。
そこで地代は要らないから作物を植えておくれやす・・・という話だ。
ボクは、文章と写真で、農と食の問題をドキュメントしたいと思っているから、
自ら体験大歓迎でオーナーになった。

稲文化に何を見るか。ボクは、弥生時代以降の我らの文化を検証して未来につなげる、
という視点を確保したいと思っている。
ところがここには、農業の現在的問題も見えてきます。
環境問題、地域過疎問題、Uターン、Iターン、自給自足などを思考する都会生活者の課題も見えてきます。
こうして思いをめぐらすと、なんとも複雑怪奇な稲穂に見えてくる稲穂の写真です。

おりしも総選挙の結果が出た。改革路線が圧倒的多数、全議席の2/3以上を自・公で取った、なんて結果だ。
ボクはボイコット派だから、どうでもええやないか、てなもんだけど、改革すすめば貧富が明確になる。
ボクは貧の方だから、自給自足を考える。

稲穂をめぐる過去、未来、そうして今が、ここにある。今を考えるイメージとして、稲穂がある。

nakagawa shigeo 2005.7
(写真挿入は2006.3.4)

















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