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あい文学校評論-2-  by nakagawa shigeo 2005〜2006


さくら2007-突羽桜-


京都地域文化図
2005.10.1
-1-

京都を、地理的場所(トポス)として捉えると、どのような見え方(地形図)ができるのだろう。
京都には、洛中・洛外という境界線が引かれている。
洛中とは、条里制の中、かって御土居によって囲まれた内側であり、その外側が洛外だ。
北野天満宮は洛中であり、鹿苑寺(金閣寺)や平野神社は、すでに洛外になる。

仁和寺(御室)から高雄・高山寺へ抜けていく街道には、北山杉の郷があり、周山、美山へと続く。
上賀茂神社から大原・三千院を抜けていく街道は、鯖街道。朽木を越えて小浜に至る。
伏見から宇治に至って奈良、吉野、大峰山を越えて高野山、熊野へと至る。

山科から琵琶湖に出ると、そこは近江。近江とは、京に近い江(湖)というのが語源だろうか?
琵琶湖の北は敦賀に至る山間地。そこを越えると越前、越中、越後へと至る。
越前とは、京から越えた前の地域。京都を中心に置いた位置関係である。
京の都を「京都」と云っているが、東京は、京の東の都である。

こうして京都を捉えていくと、地名発祥の原点となるトポスでもある。
宗教でいうと、比叡山・延暦寺、根本中堂がある。
芸術でいうと、茶道、華道、源氏物語以後の文学となる。
京都を囲む地域をこのように捉えると、やっぱり中心となる軸が「京都」という場所にあるのかな?と思わざるを得な
い。

洛中洛外。じゃ〜食などの生活を支える「京都地域」といえば、どうなるのかな?
洛中を中心点にして、30kmから50kmの地域あたりを捉えればいいのだろうか。
何を云いたいのかといえば、グローバル化に対するローカル化。地産地消と云われる地域の限定を試みたいのだ。



-2-

これからの時代に向けて、個人の生き方と社会の有り様を考えていくとき、ローカルエリアでの自給自足の試み、と
いうテーマが出てきます。この考えの基本構図は、グローバル化する世界に対する、反対軸としてあります。
たとえば、食料品の世界流通があります。これには輸送コストがかかります。輸送コストをかけないようにするには、
地域で作ったものを地域で消費することです。

このように考えると、経済規模の縮小だ、ということになり、人類の進歩・発展に逆行するようにも捉えられがちです
ね。だから、ここで、発想の転換をしていく必要があります。貨幣の多寡を基準に考えると、縮小ですが、人の心や気
持ちを基準に考えると、新しい世界観が生じてくるんじゃ〜ないでしょうか。

ローカルエリアの地図は、ネットワーク平面と個人の心の深度です。

ここにあげた写真は、織物です。文化の極みとでもいえばいいでしょうか。衣食住の「衣」文化です。この文化を織り
上げてきた文化土壌が、ここにはあります。これは美的センスの心です。現実にこのような織物文化をもってしまった
ものを捨てるのではなく、大切にしながらも、新しい地域文化図を描き出していく必要があるようです。
地域文化を捉えるなかで、経済構造の中で入り子状になっている信仰と美のあり方も考えていかないといけません
ね。



-3-

現在の京都市内をポイントとして、京都地域として考える範囲は、
京都、滋賀、奈良、大阪、兵庫あたりかと考えています。
ここでは、京の都と、何かと交流があった地域で、徒歩一日で片道移動できる範囲を想定します。
この地理的な要素は、今後の食文化のネットワークを考えるための基準です。
これは生活面的な広がり図です。

それとは別切り口で、京の都の範囲における文化集積の深さを考えています。
心のトポスとして、北野社(北野天満宮)を中心とした文化圏と、この文化圏に隣接する庶民信仰の社寺仏閣。
産業のトポスとして、西陣織物関連。
文化のトポスとして、平安期、源氏物語以降の文章領域と、絵画やお茶、お花の文化。

ここの研究において何を求めたいかというと、
ローカルエリアで、これから創りあげる人の心のありかたを求めたいのです。
新しい心と生活の形を、求めていきたいのです。




-4- 紫式部

紫式部は、源氏物語の作者・・・いうまでもない話ですが、平安期の女性です。
源氏物語は、古典文学中の代表格ですね。
口語訳も、与謝野晶子、谷崎潤一郎、瀬戸内寂聴さんと、ありますね。
京都の精神ツールを探る道筋に、源氏物語の世界ってのがあると思っています。

その源氏物語の作者、紫式部の墓所が、京都は堀川通り北大路下がった処にあるんです。
一昨日の午前中、天気も良かったのでチャリンコで、訪問してみました。
最近(といっても平成二年と彫ってありました)新しく作られた墓石でしたけれど、場所は<ここ>ですね。

固有文化の深さというのは、歴史時間をイメージと現物で遡っていくことで、判ってくるものと考えているんですが、ど
うなんでしょうね。




洛中洛外-1-
2005.11.12



京都を御土居(おどい)で囲って、その内側を洛中(らくちゅう)、外側を洛外(らくがい)、と区分しています。
この写真ポイントは、寺の内通りの西の基点、紙屋川(天神川)を南へ向けたアングルです。左側が洛中、右側が洛
外、ということになります。
この川の左側、つまり東側には北野天満宮があります。



通称名で云うと、このポイントは、御前通り寺の内西入る、です。
上記のポイントは橋の上から、南方面を見た写真ですが、このポイントは橋の手前から洛中を見たアングルです。



御前通り寺の内の十字路から、東の方へ向けたアングルです。洛中になるポイントです。道路が狭いです。
この界隈は、西陣織の織屋を営んできた生産地域です。
現在の地名は<北区紫野柏野町>、紫といい柏といい、源氏物語を想いおこさせるような字が使われています地名
です。

西陣織物産業は、いまや解体したかにもみえる産業体です。この地に古くから居住する人たちの生活環境が激変し
た、といっても過言ではない昨今です。


着物
2005.12.5



着物です。何かのセレモニーでもないかぎり、民族衣装ともいうべき着物を、日常肌に着けるなんてございません
ね。もう特殊な衣装になってしまったようですね。勿論、ここに掲載する写真のような着物を、日常的に着こなしてい
たわけではないとしても、着物スタイルは、もう遠くにいった過去のモノです。2〜3世代前までの女性は、着物を着て
いた。

着物から洋服へと服装が変わる道筋は、近現代の西欧化の中の出来事です。西欧化が悪いわけではないけれど、
固有のアイデンティティという観点からいうと、あまりいい感じではないです。なぜかといえば、合理化が至上命令の
ごとく振舞う流れに乗らないで、固有の豊かな感性を育むとすれば、永年かけて培われてきた美の象徴としての着
物を見逃すわけにはいかないのです。


中風封じ大根炊き
2005.12.7



毎年、師走になると寺社の境内で、大根炊きが行われます。京都の恒例行事です。大根を大釜で煮立てて参拝者
に配る。いや、配るといってもお金を出すわけだけど・・・。中風封じなんて迷信だとはいわないですけど、中風封じ
だ、と思うことで、封じられるというご利益がある、とボクは思っています。大根をアツアツで食べるということは、脳への
血行を良くし、健康になれる第一歩だと思うから、そういうことでは実利ありですね。

ここで煮炊かれる大根は、本殿にて弘法大師秘伝の加持祈祷、つまり、おまじないが施されているから、値段がつり
あがる。なんでも金の世の中だから、神様仏様も金頼みだ。現実的ですね〜!

千本釈迦堂の大根炊き、12月7日〜8日に行われています。


文学における現代化
2006.1.24

文学における近代化とは、その手法を西欧文化から移入することでした。明治の文明開化に伴って、文学の手法も
導入されてきた。四迷や透谷、そうして漱石・・・それからどれだけの年月が経っていまにいたっているのだろうか。
文学における現代化という命題をタイトルにしたけれど、どうゆう状態をもって、現代化とゆうのだろうか。

文学賞の話題は多く、文学作品の中味価値が、賞によって定着される。まさに世の価値創出と同じ構造のなかで、
小説が書かれ読まれ、商品として成立する。これでいいのだろうか・・・ふっとそんな疑問が沸き起こる。いまや商品
なんだ、そう自覚しよう。じゃあ、商品として成立するモノが、ヒトの癒しとはなりえても、生きる希望とか勇気を与えて
くれるモノになるのかどうかは、疑問なのだ。

娯楽あるいは読み物としての文学、いや文芸といえばよろしいですね。文における芸です。学問の対象たる分野じゃ
なくて芸です。そこでは、戯作が有効な手立てとなるような気がします。現代の戯作が得意とする領域はエロスであ
る。エロスを正面から扱うことは、世に憚る内容ではあるけれど、結局は、その領域が本質であるような気がする。知
の産物としての文学から、情の産物としての文芸、戯作へ・・・。これがおそらく文学における現代化なのだと思われ
る。


桜と京都
2006.4.24



桜の季節がほぼ終わった京都です。
昨日、御室・仁和寺へ行ってきました。
御室の桜は、遅咲きで、ちょうど見ごろだと思って出かけたんです。
まあね、只じゃ済まさないのが、今日の話です。
いつもは只で通っている場所が、通行料300円だというので、通らなかった。
桜の季節だけ、山内有料なんだそうです。
そういえば、昨年は、桜の見ごろを過ぎてから行ったから、無料だったんですね。
土産物やさんが、店を出し、あたかも京都の顔をして、観光客に売っている。
ホントかしら、これが京都なんかしら、表だけ装っても、心がないとだめですよね。

東の門から這入った左手に、御衣黄桜-ぎょいこうさくら-の木がある。
普賢桜の間に、うすい緑の花弁をつけた桜です。
透き通るような清楚なイメージを、御衣黄桜は醸しだします。
わたしは、最近の桜の写真、撮りおさめに、この桜花を撮っています。
なによりも、通行料の要らない場所にあることで、御衣黄桜は、愛することができる。
よかったね、なんでもお金の世の中で、疎外されててよかったね!


文章と画像
2006.5.8



ボクは、写真を撮って、文章を書く、とゆうことをやっているんですが、どちらに甲乙をつけるというのではなくて、画像
にまさる文章を書きたいと思い、文章にまさる画像をつくりたいと、まあ、悶々しているわけです。

写真と小説を平行してやっていると、ついつい、写真の側に立つと、写真の醸す情報で小説の感動を醸させるだろう
か、と考えるのです。また、小説なんぞを書いていると、写真イメージを文章でなぞっていく、すけすけ情報で、いかに
して臨場感をだしえるか、なんて考えてしまうのです。

アート表現の形式には、画像と文章を両極に置いて、それの組み合わせで、成立するものが多々あります。演劇と
か映画とかテレビ画像と音声とか・・・。ここに音が込められて、それらが成立していく複合アートなわけです。

いまどきの表現ツールでいえば、写真と文章は、原点なわけです。原点であることのインパクトは、それなりにインパ
クトがあるんだけれど、複合アートを越えるインパクトを醸すには、その難しさといったら際限ないと思っちゃうんです。

この画面でもそうだけれど、ボクは、写真と文章を並列させて使う手法を、使っています。これもやっぱり、すでに複合
アートの範疇ですね。ああ、写真にまさる文章を書きたい。文章にまさる写真を撮りたい。そこで、やっぱり悶々が始
まっていく、螺旋です。

豊かな心
2006.5.25



豊かな心とはなんだろう。豊かな心とは、心の、どういう状態をゆうのだろう。それは満ち足りた心の状態である。じゃ
あ、何が満ち足りているとき、豊かなんだろう?この「何」というのがこの場での問題です。

知識とか教養が豊富であることが、豊かな心であるとはいえない。ボクは、感情のふくらみだと思うのです。文学にお
ける小説とか詩が、感情のふくらみを育ませるものであるとき、その小説とか詩の価値があるとも言えます。

一方で、欲求を満たす文学、不安定な心を支える文学、なんていうのもあります。ヒトが一人でいるときに苛まれる感
情を、救済する文学です。

理屈だけでは生きられないのが人間だと思います。ヒトには感情があり、この感情が疎外されるとき、不満を抱き、
不安を抱く生き物のようです。さて、この疎外された感情を救済する手立てとしての文学は、現代において、どのよう
な質のものなのでしょうかね。

つまり、豊かな心とは何かという問題を、解答していくプロセスは、疎外された感情をどのように救済するかを解いて
いくプロセスと同じなのかも知れないと思ったり・・・。


食べること優先です
2006.6.12



なんてったって食べることを優先します。かのサルトル師匠にしたって、飢えたる子に文学は有効か、なんておっしゃ
ってましたし、かのガンジー師匠にしても塩の自給なくして独立なんぞありえない、なんておっしゃってるじゃありませ
んか。だから、食べること優先!これが第一歩です。大岡昇平さんの小説だって、食うか食えないかの極限の人間
状況を考察されているじゃありませんか。だから、食べること優先だと断言したいわけです。

そのうえで、文学なんて、文章を書いて連ねて編み上げるファブリックアートなわけでして、生命保持の基本を無視し
て存在できるわけではないのです。生命保持といえば、もう一つ、性欲のことがあります。食欲と並んで重要な要素
です。子孫を残すという生命体の本能です。文学が生きることの保障となるとき、そのテーマの根源は、食と性、ボク
はこの場面に遭遇しないといけないように、思っているのです。

いろんな立場、いろんな階層があってしかるべき文学です。いったんリセットボタンを押してあげて、原始のこころに戻
してあげて、そっから汲みあげるこころの欲求をテーマにしていくとき、文学はあらためて、生きるということに勇気を
あたえてくれる手段となる。ええ、これ、制作者の立場としてのはなしです。


文学は文字だけ使うの?
2006.6.22



文学は、文字を羅列して文章をつくり、それを読ませる、読む、という関係のなかで成立してきました。小説、詩、ある
いは短歌や俳句といえども、文字を使って成立してきた芸術の形です。でも、わたしの文章作業は、文章と写真を対
置して創りあげる形式です。さて、これは、文学の範疇に入るのか、それとも排除されるのか。まあ、こういう問題意
識の中に置かれているのです。

そうだよなぁ〜、連載小説なんて、挿画が挟まれていたじゃない?ああ、これは大衆文学とやら、だったからかいなぁ
〜、と思ってみたりです。つまり、わたしの問題意識は、文学といい、あるいは純文学という文学のあり方の問題で
す。そうですか、純文学は、文章だけで成立する形式とすればいいのですか。だから、なにも、文章だけにこだわらず
に、絵とか写真とか、混在させても成立するんですね。ただし、それは純文学ではないぞ!とゆわれれば、わたし
は、ええ、純文学でなくても結構、ヒトを感動させれば、それはそれでいいじゃないですか!と答えることにしようと、
思った。

つまりわたしは、現代の最新ツールであるインターネットを使って、文学をやりたいと思っているわけで、単に活字を
印刷した紙媒体の代わりとして、モニター画面を媒体とするだけに留まらない、使い方を考えているのです。


文字と写真という記号
2006.7.28



ここで記号論とか認識論とかを論じる気持ちは、持ち合わせていませんけれど、文字という記号についてメモしてお
きたいと思っています。というのも、もう一方の画像という記号、つまり写真という記号と、どこがどのように違うのかと
いうことを、メモしておきたいと思っているのです。

先に、写メール文学、なんてタイトルをつけたものだから、写メールを構成する二つの要素、文字情報と画像情報、こ
れを文学の形にできるのかどうか、というメモでもあるわけです。言語学の領域でいえば、ソシュール先生の言説な
どがありますが、それらをも念頭に置きながら、ユング先生の領域に近づけて、写メールという行為を考えてみたいの
です。

文字という記号は、写真という記号とは、全く正反対の記号体だと思えます。というのも、文字を連ねることで、読むヒ
トの心に、或るイメージを生成させます。一方、写真はそれ自体がイメージです。この写真イメージは、言葉に置き換
えて読むこと強いられます。

-其処に白い犬がいる-と表記された文字を読むことで、白い犬がいるイメージを生成させます。-白い犬がいる光景-
の写真を見ることで、白い犬がいる、と言い聞かせて、確認します。結局は、白い犬がいる、ということを認識させるこ
とになるわけですが、アプローチの仕方が、違う方向で、行き着くところは同じだ、といえないでしょうか。

一方で、文字という記号は、ヒトの知的営みの極みでもあるわけですから、文学上における文字は、ヒトの情、感情を
誘発させることをも目的としています。一方、写真はというと、これも見て認識させると同時に、ヒトの情、感情を誘発
させることを目的とします。芸術行為というのは、このヒトの情、感情を誘発させる装置でもあるかと思います。文字を
書くという行為は、他者に見せるという前提にたちます。同様に、写真を撮るという行為も、他者に見せるということが
前提にあります。まま、この他者は、自分自身という他者を無意識に想定することもありえます。

このように文字と写真は、わたしが他者に、読ませたい、見せたい、という思いの具体的な記号生成道具として、正
反対からアプローチする手段だと考えているわけです。



初出:あい文学校blog











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